2022年12月11日日曜日

【来春トラウマ脱却なるか】『禁じられた遊び』の音楽でアルブレヒトとロミオとソロルとジャンとバジルとエスパーダとホセとジェイムズを足して8で割った倫理に反する行為に手を染める雄牛を踊った11歳女児の話   ー後編ー





※忍耐力に自信のある方は以下どうぞ。次回は健全な内容の予定でおります。

さて、ドンキ1幕のトロワで牛の闘牛士に不納得なまま振り写しも練習も続いたわけでございますが
もう1つ、他のキャラクターとの絡みを見せる場を先生は発想されたようでした。それこそ、『禁じられた遊び』音楽を使用した場面。
禁断の恋に落ちた雌猫と雄牛の寸劇のようなもので、当日の客席の冷ややかな反応は今思い出しても悪夢に魘された心持ちとなります。
ただこの振り写し時に初めて聴いた音楽であった『禁じられた遊び』のテーマ曲は聴く限りでは気に入り、哀愁が伝うギターの旋律も耳に残っておりました。
但し、音楽の面ではどうにか第一関門を通過したもののどうにもこの年齢のこの時期特有の症状が原因で再び鬱蒼とした森へ入った心持ちに。

まず、ちょうど初潮の時期であったこと。学校ではこれといって女の子らしいと呼ばれるタイプの女子では全くなかった私でしたが
身長のみならず身体のあらゆる部分の成長が早く、恐らくはクラスでも最初にあたる時期であったかと思います。
そのためまだまだ珍しい事態ですから級友からは冷やかし半分にポーチの中を覗かれたり、やはり女の子であった云々言われ続けたものです。
ただいずれは女子には皆に訪れることですから中身を覗かれても嫌とは思わず、おすすめ商品の案内をしたり
学習の面においてはクラスに学校に何の貢献もできずにいた学業成績最下層民でしたから
将来に向けてのせめてもの知識共有の役立ちをと思えば案外嬉しいもので、また自身の性別は「女」であるとこれまでの人生の中で最も意識した時期でした。
お尻の膨らみも気になり出した頃でやや長めのスカート付きウェアを着用していた点も今思えば「雄」「男」への入口を阻む原因にも繋がっていたかもしれません。
現在のレッスン時のほうが全身の線がくっきりと出る格好をしており、ただでさえ重量感のある身体のため身につけるものは極力少なめに
電化製品開発ではないが身体の薄型化軽量化を図りたい現実問題があるとはいえ、中高年の年齢に達して図太くなった神経の恐ろしさを感じる今日この頃です。

話を太古の昔に戻します。ドンキのトロワ曲でのソロにはふんだんに男性風ヴァリエーションなポーズが含まれてはいたものの
ミンクス特有の賑やかズンチャッチャ曲調による誤魔化しも効いて一応はこなすことができましたが
悲哀感が宿る『禁じられた遊び』は勢いのみではとてもでないが乗り切れず。まず設定が「禁じられた恋」だったようで雄牛の雄度を上げて臨まねばならず。
身体の状態と劇中での性別なんぞ一旦は切り離して考えることくらい容易にできそうですが、欠陥だらけの私はなかなか心身の切り替えができず。
更には雌猫と雄牛が恋に落ちるって何のこっちゃ、だったわけで、禁じられた恋にも色々あると想像膨らませましたがまだ僅か人生経験11年弱の脳みそでは答えが掴めず
誠にお恥ずかしい話、愛を交わす2人の関係を表現する危うい系統の言葉が持つ意味合いの違いも分かっておらず。
駆け落ち、不倫、浮気、情事、或いは異種相姦等と浮かんでは消え、どれが当て嵌まるか想像力に限界を感じる11歳女児でございました。
先生からはそこまで細かな設定の話はなかったものの(プログラムにもあらすじ明記無し)
唐突に始まる場面でしたし禁断の状況に至った理由によって登場方法や振る舞いも変わってくると閃いた11歳の私です。
しかし、学業成績常時低迷を毎学期の通知表にて散々突きつけられている身からするとバレエにおいても頭の可笑しさを指摘されるのはまっぴら御免でしたから、
それなら黙って淡々とこなすほうが良かろうと判断したのでした。学校でもバレエでも、劣等生街道まっしぐらな子供だったのです。

まず振付ですが、黒いマント羽織った私が上手側奥から歩きながら悲壮感漂わせて登場し、やがて舞台中央へ走り寄ってまた袖へ引っ込む流れ。
もう某精霊作品の2幕、陰を帯びた貴公子中の貴公子の懺悔行脚の振付しか思い浮かびませんが
つまりは私は墓地でのマントアルブレヒト後悔歩きを11歳のときにたどたどしく披露していたのです。
小さな教室の発表会とはいえどもこれらを容姿醜し11歳女児が男装(雄装か)舞台でやっていたと思うと再び悪夢に魘されます。
先生からは悲しそうに怪しげにと助言をいただきましたが、ただ墓地アルブレヒトや影の王国前のソロルとは違って誰かを死に至らせた設定はなく、
のちに雌猫と会うと考えると、そこまで悲しみの雨に打たれるような歩き方ではない、
序盤の振付は懺悔のアルブレヒトであっても心境はバルコニー前のロミオや1幕逢瀬の場面のソロル、シルフィードに会いに行くジェイムズであろうと勝手に分析。
前編へ綴った通り不真面目劣等生な子供であり、『土佐日記』を完成させた紀貫之のような異なる性の立場からの文筆力も皆無な身で
性差超越分析論を唱えるのもおかしいことですから黙って場をしのいでおりましたが笑。

そしてその後の展開の振付では冷やかしに遭う雌猫を舞台中央にて堂々と立って背中の後ろに隠し、冷やかし隊から守る場もありまして
つまりはジャンの帰還と似た構図を容姿醜し11歳女児が男装(雄装か)舞台でやっていたと思うと更に悪夢に魘され、客席の寒々しい空気感は今も忘れられません。
盾になって守る側ではなく背後で守られる側に立ってみたいなんぞ容姿醜し11歳女児、言えるはずもなく現在に至るまで永遠の憧れ状況でございますが
今やこの場面をプロの公演にて鑑賞するたびに、危機的な慌ただしい状況下においてもただ避難させるだけでなく目を合わせ頷くなりして姫に安心感を与えているか等
NHK『ためしてガッテン』の調査員並みに注視し判定をするまでになるきっかけになっただけでも幸いと思ってもう諦めの境地におります汗。

それはさておき加えて続いてはタンゴだったか、雌猫と少し踊ったのち(社交ダンスの経験やピアソラを知っていたら楽しめたであろうかと現在も自問自答)
決めポーズにて一瞬ではありますが雌猫を抱く場があり。ただ『くるみ割り人形』1幕のように幼い男女が微笑ましく戯れている場ではなく
倫理に反する行為から生じる抱擁ですから健全さを出してはならず単にぎゅっとやれば良いものでもない。
しかし11歳にして男女交際経験もなければ情事が延々と続く映画鑑賞経験も、そして大映ドラマや赤いシリーズドラマ視聴経験もなし。
早寝派な子供でしたので恋愛ドラマも殆ど見る機会がなかったのです。バレエを辞めて年月が経過してから不倫を題材にした映画やドラマの存在を知ったが時既に遅し。

そこで11歳女児、乏しい脳みそを精一杯駆使し頼みの綱として辿り着いたのは、学力が低い分、世の中の事柄は知っておこうと
半分趣味気分で新聞を読む習慣はあったためふと思い出した新聞の下部に仰々しく掲載された週刊誌の宣伝。
駆け落ちの果ての不倫婚やら浮気からの略奪愛等々の見出しにヒントが隠されていそうに思えたのです。
小学生の子供が出演するバレエの発表会の役のために週刊誌掲載のスキャンダル記事を頼るなんて前代未聞でしょうが親にも言えず、そうするしか方法がなかったのでした。
しかし、いざ書店やら歯医者や眼科に行ったときに手にとって読んでみても理解には到達できず
ついでに中のほうに書かれていた連載の官能小説にも目を通してみたが露骨な性描写の連続に絶えられず。途方に暮れて終わりました汗。
バレエにおける例えば『ドン・キホーテ』や『ラ・バヤデール』『カルメン』等の逢瀬場面は目にしていて想像はできたものの
11歳にして男側をやるとは思ってもみませんでしたから結局鑑賞経験は役立たず。
パリ・オペラ座バレエ団による『コッペリア』初演時はフランツ役も女性が踊った旨は薄井憲二さんの昭和期の出版書籍では知っていながらも
フランツは浮気性ではあるものの飄々軽妙で作品も喜劇。暗い陰を引き摺る役ではありませんから初演時の女性ダンサーに敬意を表して努めようとする気持ちにも至らず。
先生から時折指摘された「男らしく雄らしく」表現には到底近づけず、引き裂かれるようにして
上手側と下手側に別れながら袖に入っていく最後、そして中盤の守るも抱くも双方の行為も大失態のまま終了いたしました。

せめてもの救いは雌猫役の生徒がそれはそれは愛らしい容貌で守りたいと思わずにはいられぬ存在であった点と曲が短い構成であった点でしょう。
勿論非は完全に私自身にあり、古典とコンテンポラリーを同時進行で練習を重ねたり
心優しい純朴な人が暴君な役柄を当てられた等のプロの方々の重圧極まりない状況に比較したら塵の1画目にも及ばぬ規模の小さな話であるのは承知しておりますが
頭と心の切り替えすら出来なかった不器用さや、そして大根であったのは脚のみならず芝居力も同様である姿を晒して舞台を台無しにしてしまったのでした。

先生がいかにしてこの場面を思いつかれたのか今も不明で、私が将来倫理に反する行為に手を染めると想像されたのか、
乙女な印象もなく守りたいと思えぬ容貌ですから恋愛成就するとは思えず
自分の身は自分で守らないかんと言いたくて男側の立場を与えるに至ったか想像はあれこれ今も巡っております。
他にも私自身は生まれて以来11年間(当時)身も心も「女」として意識し生き続け、男子に間違われたことはなかったと思っておりますが
実は先生の目には男に見えていたのかもしれぬとも考え、入浴中も連日自身の体を観察したものの丸みを帯びていく体つきの変化の始まりの時期で
日に日に胸やお尻も膨らみ、月のものも順調なサイクルで訪れておりましたから性別は女子には違いない、問題は顔立ちにあったのか。
或いは陰鬱な役が絵になる人の虜にいずれはなるだろうからまずは自分で体験と仮にお思いになっていたならば
新宿の母やノストラダムスを遥かに超える大予言者でいらっしゃいますがそれはないでしょう笑。

つらつらと長くなりましたが、以上が『禁じられた遊び』テーマ曲を踊った我が体験談です。
先月半ばに来春の新国立劇場バレエ団の公演Dance to the Future2023にて上演との発表以来https://www.nntt.jac.go.jp/dance/dtf/
太古の昔の11歳当時の記憶が毎日毎日激流の如く脳内を駆けており整理整頓ができず、この場を借りて文字化した次第でございます。

前編後編と続いて当ブログ開設以来であろう、誠に不健全な内容となり大変申し訳ございませんでした。
この曲が突如流れてくる分には何ら問題なく耳を傾けることもでき、今年のお正月の『くるみ割り人形』鑑賞帰りに立ち寄ったオペラシティ飲食店においても
今秋に視聴したワールド・バレエ・デーでのオーストラリア・バレエ団クラスレッスンでピアノ伴奏されていても哀愁のある素敵な曲調であると思った程度でした。
一方、この曲が流れると分かっている状態でその空間に身を置くことができるかと聞かれると、無惨な11歳女児なんぞと比較にならぬほどの世にも美しいダンサーペアで披露されますし
別格な舞台が出来上がる様子は目に見えているものの、内面が未熟なあまり週刊誌読み漁るも内容によっては拒絶反応起こしたり
入浴時に自身の身体を眺め回して男性の象徴部分を探すも当然無く、性別を深々考える日々が続いたあげく
身体も芝居力も大根な無残な姿を晒した本番における寒々しい11歳当時における醜き不真面目な女児が招いた
自業自得な惨劇を思い出してしまいすぐさまには首を縦に振れず。

しかし救いとなっている要素が2点。まず来春の初台における披露に対してこの曲も映画も好むお考えや
出演者2人が生み出す化学反応への期待等、周囲から前向きなお声が多々聞こえ、私にも希望をもたらしつつあります。周囲の皆様、ありがとうございます。
それから振付が木村優里さんでいらっしゃること。木村さんの独特の面白い感性には毎回惹かれており、
昨年秋のDTFでの『コッペリア』曲にのせた不思議な趣の可愛らしい作品にも目を奪われましたから、来春の新作も楽しみでおります。
何より出演者の名前の並びを目にすると、本来ならば迷いなく「光速」で観に行きたい欲を表したいところです。

実は私の中でこれまた過去分含む発表会三大トラウマ(大袈裟な言い方かもしれないが)曲があり、1曲は数少ないクラシックチュチュ着用機会にて、
太く短いにもほどがある手脚や欠点を覆うための技術上達の向上心の無さに嫌気がさしチュチュの着用回数少ない理由にも思わず納得したメサジェ作曲『イゾリーヌ』。
しかし10月の記事で少し綴ったように、アーキタンツにて前のクラスを待っているときにグランジャンプの箇所にて耳にし
曲だけは好きであったが第三者の方々が踊っていらっしゃる光景と一緒に聴くと心も弾みすんなりと耳に入って解消成功。
それから雄牛と同じ発表会にて踊ったレハールのワルツは打って変わりリボン多しフリルドレスな衣装で
吐き気がするほど似合わず、これは雄牛のほうがマシであり先生が雄役に配した意図を思い知らされたと心底思ったものです。
しかし時を経て数年前からは年末の風物詩となっている大阪の川上恵子バレエスクール発表会フィナーレにて
恒例の曲として流れ、我が脳内では「浪速の第九」として定着し、解消成功。とうとう残り1曲『禁じられた遊び』のみとなったのです。

この曲を使用しバレエとして他人が踊るのを舞台で観るのは初であり
毎度購入している紅茶のパックの付録にあった、かれこれ半年前から戸棚に貼り付けている
ナマケモノのシールを眺めるたびに思い出す木村さんが手がける振付ならば嬉々として鑑賞に駆けつけたい気持ちは山々。
あとは「出演者名」も心に刻み、レッスンではなく鑑賞においても沈み行く重い身体を引き上げ、田町にてジャンプの際の指導で目に耳に残る講師のお姿とお声
「お尻ごと移動〜!」を実践して初台に飛び、来春3月下旬辿り着けたらと思っております。


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