2022年12月11日日曜日

【来春トラウマ脱却なるか】『禁じられた遊び』の音楽でアルブレヒトとロミオとソロルとジャンとバジルとエスパーダとホセとジェイムズを足して8で割った倫理に反する行為に手を染める雄牛を踊った11歳女児の話   ー前編ー





長い題名で失礼いたします。先月中旬の初台における発表以降脳内を小学校高学年の記憶がずっと巡って止まらず
整理整頓を兼ねて記しており、以下生々しい及び現代にはそぐわない表現表記もございます。
あくまで太古の昔の我が脳内で生じた内容を極力そのまま載せており、放送禁止用語は無いと判断し記載しておりますが
嫌気が差した方は無理に読もうとなさらず、健全な内容となるであろう次の次の回をお待ちください。

まず、突然の長い題名で失礼をお許しください。文字の並びだけでは一見訳がわからぬ役を踊った11歳女児とは、私のことでございます。
また後日と申しながら長らく放置しておりました、今年の秋公演『ジゼル』総括の最終部分におけるバレエと牛の事項、
及び遡って昨年末から今年のお正月にかけての『くるみ割り人形』総括最終部分における、オペラシティの店舗内で流れていた
来春3月には2人のダンサーによって初台にてバレエとして振り付けられた作品の上演決定が発表された
映画音楽『禁じられた遊び』に関する話で、正確には小学校6年に進級したばかりの春の発表会の出来事です。

私が通っていたバレエ教室は人数が随分と少なかったことは以前にも触れたかもしれませんが、発表会も少人数で出来得る演目をどうにかこうにかやっておりました。
古典全幕は到底困難ですから抜粋と、近年はバレエ・コンサートと呼ぶらしい小品集、そして先生が創作された1幕物の作品、の構成が定番であったかと思います。
少人数ですから配役等は貼り出しではなく先生が口頭でぱぱっと伝えくださっていて小学校5年生の秋頃であったか、翌年春の発表会の1幕創作物の概要説明がありました。
先生曰く、動物達が集う光景をテーマにされたそうで、ある女の子が動物達が暮らす地域にやってきて色々な仲間と出会う、といった展開を浮かばれたようです。
ちなみに衣装は所謂クラシック・チュチュは誰も無し、観る方によってはコントにしか見えないとお思いになったかもしれませんが
当時はインターネット普及前の時代で良かったと再度思います。(今だったら私なんぞ何を書かれたことか笑)猫やらねずみやらうさぎやら、
バレエで定番な種類や鳥、虫に扮する役もあり。そこで私に告げられたのが、「牛」。
公演にしても発表会にしても、運命の象徴として描いたアロンソ版の『カルメン』は別にしてバレエの舞台で牛を踊る作品はまずお目にかかる機会は無いと思われ、
牛にしても何種もいますからどういった役どころであるか、現在以上に脳みそ貧相な11歳女児。当初は想像がつかずでございました。
作品中にそれぞれの役の見せ場も設けられ、複数人数の役もあれば1人の役もありまちまちである中、私は1人役。つまりソロだったわけです。
人数が少ないとコール・ド・バレエは経験できず、代わりに幼い頃から少数で舞台に立たざるを得ない、
風変わりな経験ができたのは果たして正解であったのか今も答えは分からずでございます。

ソロの振り写しのとき先生から再度説明があり、先生の口から出たのは牛は牛でもスペインの闘牛をイメージした雄牛の役、とのこと。
一族の中では大きい部類に入る我が目が点になったのは一瞬だけで、性別が異なる役は決して嫌ではなかったのです。
なぜならば、私に会われたことがある方は想像がつくかと存じますが、昔からとにかく容姿が醜く、おまけに手脚も膝下も短く
所謂バレエの発表会で踊る女の子をイメージさせるチュチュやリボン、ティアラといった衣装や装飾物が悲嘆に暮れるレベルで似合わなかったため。
先生も人間ですから私にはあまり着せたくなかったのか、一応9年ぐらい習っていながら私自身クラシック・チュチュ着用経験が実に少なく、
先生が私に対して着用を望まぬ方針がもしあったならば理解も大いにできるわけです。
体操服を着ての運動会をテーマにした作品を踊ったこともございます。衣装代が安価でしたから親は大助かりであったかもしれませんが
ただ教室内では年代によってお洒落で可愛らしい系統の衣装で踊る正統派世代と、時にはコントかと見紛う変わった衣装で踊るネタ世代が区分化されていて勿論私は後者。
原因は容姿も中身も問題だらけな私にあり、私1人がコント衣装になるわけにも教室の運営上いかず
そのため可愛らしくバレエも上手なはずの同級生達が巻き添えになってしまったと思っております。
彼女たち同級生らにもそして先生に対しても、床に額を付けても詫び切れないほどに私はどうしようもない生徒だったのです。

少々話を転換させて、例えば古典バレエ全幕を発表会で上演しようとすると大概のバレエ教室は
女子生徒のほうが圧倒的に多いため、女子が男役を担当することは珍しいことではありません。
『くるみ割り人形』の男の子達の役はしばしば見るパターンでしょう。少し珍しいところでは
『ドン・キホーテ』サンチョ・パンサ、闘牛士達、『白鳥の湖』式典長を女子が務めている舞台の鑑賞経験はございます。
しかし私が牛指名された当時の発表会は古典バレエではなく完全に先生の創作で、どんな役もあらすじも自由にできる条件下で私に牛、しかも「雄」指定されたのですから
余程女の子らしく見えない絶望級の不細工であるのが明らかになったと当時の11歳女児は考えたものでした。
今も後悔しているのはなぜこの役を私に当てたのか理由をはっきりと尋ねず終いであった点で
仮に「○○ちゃん(私の名前)は女の子らしいチュチュが似合わないから、不細工だから」と言われたしても、
幼児期から我が身の醜さは自覚しながら生きておりましたので傷つくなんてことはなく、寧ろ仰る通りでございます、
はっきりと言葉にしてくださってありがとうございます、と11歳女児は心から納得したことでしょう。
1つ考えられるのは、身体の成長が早く背が周りよりも当時は高めであったことも「雄」役の決定要素にはなったのかもしれませんが
しかし背の高さならば、例えば当ブログレギュラーの我が大学の後輩は子供の頃から背があるほうだったようですが
子供時代の写真を見ても見るからに姫や妖精といった役柄しか思い浮かばぬ、歩く花園と呼びたくなるほどの
華麗な容姿でしたから、人の心を持った教師ならば雄の役なんて当てないはず。そう考えると、決定要素は身長のみではなかろうと思えてくるのです。

これまた以前から触れている事柄ですが、私は子供の頃から習ってはいても踊ることよりも鑑賞や書籍等バレエについて調べる作業を遥かに好む子供でした。
鑑賞も踊ることも両方好きな子供や全く習わず鑑賞のみの子供はいくらでもいるでしょうが、
私の場合は習ってはいても鑑賞側に立つほうがレッスンよりも発表会への出演よりもずっと幸せに思えていたのです。
幼い頃からバレエ史等の研究熱心であった性格を褒めてくださる方も稀にいらっしゃるのですが、実のところ褒められるような行動は一切しておらず。
プロか素人か、チケット代金の有無等異なる点は多々あれど発表会であれ公演であれ、舞台出演するとなれば観客から時間をいただくのは共通項で
つまり観客に楽しんで幸福になってくださるよう努めるのはプロも素人も変わりはないと昔から感じておりました。
ところが、私の場合とてもではないが観に来てくださった方に幸せな時間なんぞ約束できず、それどころか苦痛な時間しか約束できず。
発表会でも友人はごく少数しか呼ばず、客席埋めにも貢献できずでしたが苦痛を強いられる人が少ない方が良かろうと特に11歳のときは結論づけていたものです。

近年では、例えば当ブログレギュラー大学の後輩の様子を見るとここ数年はロビーでの面会は困難ですが
数年前は発表会終演後ロビーにて待っていると、恐らくは20人以上は知人や友人達が来ていてしかも誰もからこれ以上にないほどの幸せな笑みが表情からこぼれ
会話する番を待っているときですら、面会対応中の光景を眺めているだけでも
趣味で上がる舞台であっても客席へ幸福を届ける意義を学んだ次第。また生徒に知り合いがいなくても、
帰り際ロビーでの面会を晴れ晴れと行っている生徒さんやご家族ご友人達の幸せな光景から、
その場を通り過ぎるだけでも一層の幸福をいただいた気分となります。私には微塵も成し得なかったことです。

幼児期からソビエトバレエを中心に研究に没頭してしまいバレエをやるイコール綺麗な人であるのは必須と思い込んでしまった経緯から
とても自身がやるものではないと子供ながら感じてはおりましたが、容姿もさることながら、例え醜い見苦しい見た目であっても
そういった負の部分を覆い尽くす勢いで技術向上、上達に向けての努力が全くできぬ、最早救いようがない子供だったわけです。
そうすると習っている身であるにも拘らず日々何の努力もせず益々鑑賞、研究への偏りは止まらず
もし幼い頃から容姿端麗且つ謙虚な努力家で、レッスンにも発表会に情熱を注いでいたならば、
少なくとも子供時代までもが鑑賞研究熱心にはならなかったであろうと思っております。現在の鑑賞愛好オタクの根底にはそんな皮肉な背景があったのでした。

さて話を戻します。ソロの振り写しのときに先生から大まかな役どころを聞いたわけですが、更に躓いたのは使用音楽。
恐らくはカウントが取りやすい且つ短い点が丁度良かったのか、『ドン・キホーテ』よりバジルとキトリ友人のパ・ド・トロワでございました。
それまでさほど古典バレエの音楽で踊った経験がなく嬉しいと思う一方引っかかってしまったのがこの場面、闘牛士は登場しません。
プティパとミンクスがいかにして話し合って作り上げたか過程は分かりかねるものの、
この曲はどの版を観てもバジルとキトリ友人3人以外は周囲でわいわい盛り上げる係に徹していて、どう考えても闘牛士が踊る曲ではないと頭に刷り込まれていたのでした。
発表会等で『ドン・キホーテ』の曲で踊ったことはなく、おおよそはどの曲も同じリズムであるから闘牛士云々までは先生も考えていらっしゃらなかったと思われますし
そしてまさか私が踊ったことのない作品の音楽の全編を11歳にして把握しているとは想像もできなかったはず。
いかんせん先述の通りレッスンは淡々と必要最小限のことしかやらず、あとは鑑賞や研究に夢中でしたから
この年齢の頃には三大バレエや『ライモンダ』、『コッペリア』、『ラ・バヤデール』、『海賊』、『シンデレラ』、『ジゼル』、『レ・シルフィード』、
『パキータ』、『ロミオとジュリエット』等の有名どころの幕物作品の物語や音楽展開は頭に入っていたのです。

映像資料はまだまだ少ない時代でしたから、書籍に頼るといっても図書館では所蔵本の種類が私には足りず、
書店へ行ってもまだ幼い子供ですので経済事情から自由な買い物が難しい年頃。立ち読みが中心で
時にはあろうことか、高所にあり手が届かぬ書籍を店員さんに取ってもらい、読むだけ読んで返すなんてこともしており
店員さんが忙しそう或いは見当たらないときには見ず知らずの近くのお客さんにお願いして取ってもらったこともございました。
運良くどなたも嫌な顔1つせず快く応じてくださり、店員さんにしてもお客さんにしても、バレエ好きなんだね、とても綺麗な写真だねと言葉をかけてくださった方もいて
戻したいときや他にも取って欲しい本があればまた声かけて、とまで優しく気遣ってくださった方もいらっしゃいました。
当時居合わせた店員さんやお客さん達には申し訳なかったと今も感謝状と謝罪文が脳裏で作成しては過ぎっております。

今でこそ、年数回のレッスン受講時にピアニストさんが奏でてくださるバレエ音楽から即座に舞台の振付や光景ばかりが目に浮かび覚えの悪さに拍車をかけておりますが
良いか否かは別として、指導者にとっては消去して欲しい余計な思考力であるのは承知しておりますが前向き上向きにな気持ちになるのは確か。
しかし11歳のこの当時は舞台の振付や光景が先行し過ぎて先生が新たに作ったイメージがどうしてもできず
歪み捻じ曲がった感性が生じてしまう事態となっておりました。そうは言っても、違和感しか感じずにいたソロの曲であっても闘牛士のイメージ沸きませんとなんぞ
劣等生である上に不真面目な11歳女児が言えるはずもなく、ムレタを用いたイメージの振付や
リュシアンやバジル等を想起させるポーズも盛り込まれた男性風ヴァリエーションな振付を、不納得なまま淡々と取り組んでいたのでした。
もし宝塚歌劇団の男役スターなり、男装の麗人として名を馳せた川島芳子に興味を持ち知識も有していたならば役に入り込んで臨めたかもしれませんが
双方に無関心無知であった11歳女児で、思い出す今も猛省しかありません。習っていながらバレエは鑑賞に重きを置いていた性分に理解を示してくださっていた先生には
感謝ばかりが尚募ってきます。他の教室であれば即効退会処分になっていたことでしょう。

実は闘牛は闘牛でも、「スペインの」と先生が仰ったとき、すぐさま思い浮かんだのは「殺処分」。
『ドン・キホーテ』を複数種の版を観るにあたって小学校低学年の頃だったか学校の図書室か地域の図書館であったか闘牛について調べたとき
スペインでは殺すがポルトガルでは殺さないといった文が書かれていたのです。(現在の状況は分からず)
ですから先生の口からスペインと発せられた瞬間、「殺処分、つまり私もいよいよ退会処分か」と
日頃の行い、バレエへの取り組み方に対していよいよ先生も嘆きが頂点へと達しつつあると捉えておりました。
加えて牛が闘牛士、となると共食いの果てに自滅か、とも行く末を考えましたが実際にはすぐの退会には至らず終いで、先生の器の大きさに触れたものです。

※思いのほか長くなってしまったため、後編へ続く。


※上の写真、今年11月半ばに所用で訪れた三重県の伊勢神宮そばの通りにて。先生は11歳当時の私のイメージに対してこういった牛を重ねられたものと捉えております。

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